日産自動車の元会長カルロス・ゴーン。
彼が保釈中の身で日本から海外逃亡したニュースは年をまたいで世界中で大々的に報じられた。
2020年という時代の節目を目前にした逃亡劇は、日本という国にとってはひどく象徴的だった。
それはゴーン個人の悲願でありながら、沈みゆく日本を浮き彫りにする出来事でもあった。
21世紀が20年目を迎えながら日本は再び西洋文明から切り離されてしまったのではないか・・・そんな哀しい印象を与える。
日本ではゴーン逮捕後は検察への批判が高まる結果になった。
しかしゴーン逃亡後はそれが大逆転。
多くの人は検察や司法の側に完全につくことになった。
ゴーンショックともいえる一連の事態の本質には何があるのか掘り下げてゆこう。
ゴーン逮捕の背景にある日仏の利権争い
レバノンでの会見でカルロス・ゴーンは一連の事態に関し改めて日本政府と検察の力を得た「日産のクーデター」だったと主張した。
日本のマスコミはそれについて「新鮮味がない、証拠がない」と冷ややかに受け止め、街角インタビューに見る多くの日本人も同様の反応を見せた。
だが、そこには充分な説得力があるのだ。
ゴーンの緊急逮捕のタイミングは、日産とフランスの自動車大手・ルノーの合併が大詰めを迎えている最中のことだった。
ルノーは日産の半分近くの株式を保有し、かつ実質的にフランス政府に支配されている。
そのため合併されると日産の莫大な収益がフランスに搾取されることになる。
これは日本にとっても大きな国益の損失だ。
そのためこの状況下で、日本政府が検察と日産を従えてゴーンに圧力をかけるのは容易に推測できる展開だ。
日本政府の圧力はゴーン逮捕の一連の過剰さからも充分に見て取れる。
ゴーンはあくまで経済犯罪の容疑者だ。
にも関わらず彼自身も主張するよう、まるでテロリストのような扱いを受け続けた。
通常、経営トップの経済犯罪への対処は企業の取締役会で解任決議が行われ、その後に検察に預けられる。
が、ご存知の通り、ゴーン逮捕は彼の飛行機が日本に到着するなり強行に行われた。
逮捕の後日、西川を始め日産の幹部は政府官邸に足を運んでいる。
明らかなゆちゃくだ。
その後、ゴーンは検察で非人道的な扱いを受け、保釈後も24時間監視体制の元で基本的な人権を傷つけられてきた。
日本政府主導のクーデターという決定的・物的な証拠は今の所ない。
だが一連の事態を見れば、その可能性が充分にあることは誰にでも分かることだろう。
99.8パーセントが物語る日本の司法の不在
ゴーンは自身の逃亡劇について「不正義と政治的な迫害からの逃亡だ」とたびたび語ってきた。
これに対し日本のマスコミは逃亡犯罪者の一方的な自己弁護だとバッサリ切っている。
なぜゴーンは逃亡したのか。
第一には裁判をしてもほとんど勝ち目がないからだ。
それは彼の有罪が明確だからではなく、日本の司法が不公正にできているからだ。
日本では、検察が起訴したケースの99.8パーセントが有罪になる。
これは驚きを超えてあり得ない数字だ。
このデータは日本には司法支配がほぼないこと、もっといえば裁判所がないも同然であることさえ訴えてくる。
99.8パーセントの国・日本ではどの被告人も1,000のクジの中から2本の当たりクジを引くために裁判に臨んでいるようなものだ。
そんな絶望的な中、日本政府の圧力さえ疑われる状況で裁判を受けたいと思う人はいるだろうか。
ゴーンは逃亡の数日前、担当弁護士の弘中氏に公正な裁判が期待できるか訊いたという。
弘中氏は「それは期待できないが無罪を勝ち取る可能性は充分にある」と返した。
だが、ゴーンはそれを聞き流し彼の存在さえないような態度を取ったそうだ。
それが逃亡への最も明確な兆候だったといえる。
どんな司法を持つ国でも守るべき基本的人権
第二の逃亡理由はやはり保釈後もゴーンが妻キャロルさんと引き離されていたことがある。
検察はこれについて妻を通じて犯罪の証拠隠滅に走る可能性があるからだと説明した。
だが、この主張が通ればすべての保釈人が妻と会えなくなってしまう。
愛し合っている夫婦であればどんな妻も被告人の夫のために何らかの手助けをしようとするものだ。
またここには日本と西洋の夫婦間の違いも見て取れる。
多くはドライな日本の夫婦と違い、西洋には子どもができて年を取ってもロマンスを忘れないカップルが数多くいる。
例えばあのポール・マッカートニーも来日時の大麻所持で逮捕された際、釈放後の久しぶりの妻との再会では大勢のマスコミがいるにも関わらず熱烈なキスを交わした。
西洋には自分の人生と最愛の人が一体になっているカップルが少なくない。
そんな人たちにとって最愛の人が奪われるのは恐ろしいほどの苦痛になる。
この点はゴーンが主張するよう基本的な人権の剥奪に当たる。
基本的人権は国際条約であり、どんな司法を持つ国にもそれを守る義務がある。
日本の検察や司法は国際的な人権ルールを明らかに破っている。
つまり人権を基準に考えればゴーンの逃亡はむしろ不法国家の迫害を逃れるための正当な行為だったことになるのだ。
法律が絶対化した中では期待できない建設的な議論
日本ではゴーンの逮捕劇を受け、当初は人質司法を取る検察にバッシングが起こった。
だが、ゴーンが逃亡すると一転、一気に非難の矛先がゴーンに向いた。
それは礼儀正しい日本人の根本に「法律」というものが絶対不可侵のルールとして存在しているからだろう。
どれだけ法に虐げられた人でも法を犯したとたん一気に罪人になるのだ。
レバノンの会見の際、ゴーンは日本のメディアの多くを締め出し、日本国内では特にその点が非難された。
だが、それはマスコミが一斉に自分を非難する日本国内の状況をつかんでのことだったはずだ。
フジテレビの安藤裕子キャスターも締め出された1人である。
彼女はフランスメディアに逆取材され、自身が検察の代表ではなく公正な立場で報じているのだと反論していた。
だがその後、安藤は日本のカメラの前では法務大臣の言葉を借り、ゴーン被告が潔白を主張したいのであれば日本の裁判所で行うべきだったとコメントした。
まさにこれこそゴーンが日本のマスコミを締め出した理由である。
日本の司法は絶対に正しいものである。
政府や検察であれば、これを前提に正義を訴えるのは理解できる。
しかし日本ではマスコミや一般市民までそれをやっているのだ。
これでは会見中にゴーンが暗示したよう、日本のマスコミとは建設的な議論ができず、時間を無駄にするだけということになる。
容疑者・被告・受刑者に認められるべき人権
誤解しないでほしいが、私はカルロス・ゴーンを擁護に回ってはいない。
彼は極悪人である。
数々の証拠が上がっているようゴーンの会社資金の私的使用や横領は明らかである。
強欲極まるゴーンは格差拡大の今、最悪の類いの犯罪者に当たる。
私がここまで批判したのはゴーンの一連に逮捕劇で明らかになった日本の検察・司法・政府の腐敗である。
ゴーン逮捕から逃亡劇にいたる中、私が最も痛切に感じたのが「推定無罪」の尊さだ。
いくら警察に逮捕され検察に起訴されても、裁判で有罪が下るまでその人は無実の人である。
99.8パーセントの勝率を持つ検察天国の日本では、この点があまりに軽く見られている。
容疑者でも被告でも、そして受刑者でさえ基本的な人権は保証されねばならない。
この意識の温度差が、ゴーンのニュースで明るみになった日本と西洋のギャップである。
日本の検察・司法は政権交代が起きない限り、何も変わることはない。
日本は2020年を迎えても依然、司法や人権よりも時の政権の利権で動く二流国家のままなのである。
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