アカデミー賞が迫ると毎年のように日本でも「アカデミー賞大本命!」と銘打たれた映画がいくつか公開される。
根拠はそれ以前の賞レース・アカデミー賞前にあるゴールデングローブ賞などの受賞結果、あるいはアメリカの著名な批評家や新聞のレビューなどになる。
バットマンのジョーカーを描いた『ジョーカー』は2019年の10月世界公開ながら早々と「アカデミー賞大本命」的な宣伝文句で売り出された。
そして実際に数ヵ月後、アカデミー賞・最多11部門にノミネートされる結果になった。
予測が当たった要因は全米での批評受けの良さを重視したからだろう。
私は公開当時、ここで『ジョーカー』のレビューを書かせてもらった。
そして今回『ジョジョ・ラビット』のレビューに当たる。
日本では2020年1月17日公開されたこの映画もまた「アカデミー賞大本命」と銘打たれている。
実際、作品賞を始めとして6部門でノミネートされている。
さて、果たして本当に大本命なのだろうか。
北野映画との比較で見えるタイカ・ワイティティの作風
『ジョジョ・ラビット』は何よりタイカ・ワイティティというニュージーランド出身のコメディアンが、監督・脚本・出演を兼ねている点が目を引く。
同じくコメディアンの北野武もまたこの1人3役を務めることが多々あり、主演を務めることも少なくなかった。
タイカ・ワイティティはこの『ジョジョ・ラビット』であのヒトラーを演じ、監督としてはコメディの中に戦場の暴力性をうまく落とし込んでいた。
北野映画は逆に暴力性の中にコメディを少々混ぜる作風である。
北野はよく笑いとはひどく暴力的なものであると言っている。
おそらくワイティティ監督も同意見であるだろう。
『ジョジョ・ラビット』は、誰もが知るヒトラー率いるナチスが敗戦濃厚になった末期、子どもたちの徴兵部隊・ヒトラー・ユーゲントを戦場に送り込んだことを描いた映画だ。
ヒトラーを描く映画は無数にあるが、ヒトラー・ユーゲントに焦点を当てた映画はほとんどないだろう。
ナチス映画をコメディ基調で描く点と共に斬新なアプローチである。
そして、それは現代社会との大きな接点を持っている。
この点においてワイティティ監督は、政治性が乏しくひたすらピュアな北野監督とは決定的に違うのである。
ビートルズへの熱狂に通じるナチスの祭典
映画の始まりはすばらしくエンタメだ。
少年・ジョジョを始めとしたナチスに熱狂するドイツ国民と共にビートルズのドイツ語版『抱きしめたい』が流れるさまはまさに爽快のひと言。
劇場の大迫力のサウンドもあって超一級のミュージック・ヴィデオに感じられた。
鑑賞者の多くはヒトラーの極悪さを忘れて、シートの上で体を揺らしたのではないだろうか。
このシーンはまた当時のドイツ国民が決して異常ではないことも伝える。
彼らが熱狂するさまはまさにビートル・マニアであり、ビートルズのライブ中の客席がナチスの祭典映像に途中挿入されても違和感はなかっただろう。
政治的熱狂はポップカルチャーのそれと通じ合っているのだ。
当時のドイツ国民にとってヒトラーはロックスターだった。
そしてジョジョのような子どもにとって彼はスーパーマンのような憧れのヒーローだったのだ。
ただ、このような新鮮なシーンはあとにほとんど観られなかった。
全体的にはナチス映画の古臭さに取り込まれてしまったといえるだろう。
少年のイマジナリー・フレンドになったヒトラー
映画は前半が軽いコメディ、後半は重厚なドラマであり、そのギャップを感じさせないほど全体が上手く流れていた。
ヒトラー・ユーゲントの集団演習で少女兵士たちには戦闘ではなく妊娠の仕方を教えるという件は、最も笑えたところだ。
何十人も子どもを産んだことを自慢する肥満の女性教官に少女たちがうんざりする様は本当におかしい。
ワイティティ演じるヒトラーは笑いを取る役どころ。
ユダヤ人の女の子に正しいユダヤ人の知識を教わったジョジョに対しヒトラーが「あの女に洗脳されるな」と言うのも爆笑ポイント。
まさに「お前が言うな!」である。
そしてヒトラーがジョジョのイマジナリー・フレンドであることが興味深い。
子どものときに多くの人は想像上の友達を持つものだ。
現代であればアニメを元にした他愛もないキャラだろう。
妄想の中でそれは子どもと対話し、いずれは子どもの成長と共に消えてゆく。
ジョジョにとってそれがヒトラーだったのだ。
それは戦時下の異様さを伝える。
ナチスの熱狂の元では子どもにとってヒトラーは憧れのヒーローであるばかりか、頭の中にまで住み着いた存在だったのだ。
イマジナリー・フレンド化したヒトラーはまさに恐るべき洗脳の象徴である。
ワイティティはそれを愉快に演じたことで、逆にその恐怖を伝えることに成功したといえるだろう。
現代と地続きになった人種差別の先にある地獄
『ジョジョ・ラビット』のラビットは10歳の少年・ジョジョを臆病なウサギにたとえた彼の愛称だ。
と共に、映画の終盤でそれが彼の家で飼われていたウサギであったことが一枚の絵で示される。
それはユダヤ人の少女であり、ジョジョの母はナチスの迫害から守るために彼女を家の中に匿っていた。
ジョジョと彼女・ラビットの交流が映画の核心にあり、だからこそ『ジョジョ・ラビット』なのだ。
ナチスのユダヤ人虐殺を通し、この映画は人種差別の恐ろしさを何よりも訴えている。
作中ではユダヤ人には角が生えるなど、人間とさえ思っていないことが描かれている。
まさにその異様な差別の先に、ジョジョのような子どもたちまでもが激しい戦場の中に駆り出される地獄が待っているのである。
貧困が拡大する現代でも人種差別は横行している。
トランプのようなポピュリストは貧者の怒りの矛先を差別に向けさせ、自らの支持基盤を固めている。
ヒトラーはさらに権力を固めて法律を変え、全国民を狂気の戦争に引きずり込んだ。
ジョジョの生きた70年以上前の世界と今は地続きでつながっているのである。
戦場の静けさは人のこころを揺さぶる
「全世界が笑い、泣いた」というのもまたこの映画のキャッチコピーだが、それは決して大げさではない。
映画は終盤に戦争映画の傑作『プライベート・ライアン』かというほどにリアルな戦闘シーンに入る。
そして虐殺の真っ只中にスローモーションが入る。
それは静けさに満ち、そして美しい。
『プライベート・ライアン』にも同様の手法があった。
過激な戦闘シーンを夢想的に描くことは、観る者の感情や思考を大いに揺さぶる。
純粋無垢な子どもたちが戦場の地獄に飛び込んでゆく。
その悲劇に共振しない人は果たしてこの世にいるのだろうか。
なぜ、人は殺しあうほどに憎みあうのか。
憎しみを乗り越えるにはどうすればいいのか。
このスローモーションの中、そんな思考を喚起された人も多いだろう。
私もその1人だった。
正直、今私の人生には居なくなってほしいと思う人がいる。
果たしてそれが正しいことなのだろうか。
私はスクリーンの中、スローモーションの戦場の中に銃器を持って飛び込む自分自身の姿を観たようだった。
さて、この映画、本当に「アカデミー賞大本命」なのだろうか。
私の答えは残念ながらノーである。
今年のアカデミー作品賞はまれに見る大激戦だからだ。
本命のタランティーノの新作を始め『ジョーカー』や『アイリッシュマン』などの評価も高い。
そこに食い込むほど『ジョジョ・ラビット』の作風には重みがない。
ただ、重く政治的なテーマをポップなコメディタッチで描くこの映画は観る人を選ばず、その分、多くの人に訴える力があるといえる。
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